裏こち横
〜お蔵入りなったコラム集〜


研究室本 「こちら、横浜国大そらの研究室!天気と気象の特別授業」 、通称「こち横」。
こち横では、TeamSORAメンバーや研究室の関係者からコラムが掲載されています。
しかい、出版社の編集者により、最初にいただいた原稿の多くは、編集者により沢山修正や加筆、ときには全部ボツにまでされています。
この「裏こち横ページ」では、そんな皆さんから頂いた最初の原稿をそのまま掲載します。
ちなみにボツに理由は「もっとまじめに」「生々しい」でした。
本編の紹介


走り抜けた研究室の日々  森田隆之 (第5期生)
大学3年生で研究室選びをする際、私は迷うことなく筆保研究室を希望しました。高校では化学を履修し、気象学に興味を持っていなかったにも関わらず、そう決めた理由は2年時に履修した先生の講義です。冗談を交えながら楽しそうに話す先生の講義はとても魅力的で、「この人の研究室しかない」と直感的に思いました。例年であれば筆保研究室は希望者があふれるため、成績順で選抜されて優秀な学生のみが集まります。しかし私の学年では、体育会系で少し不真面目な私も奇跡的に入ることができました。筆保先生からは「森田には研究室のメンバーを巻きこんで、体を張った観測の研究をしてもらいたい」と言われ、やはり私は体育会系的な研究が期待されました。ちょうどいいと思った私は「やります!」と元気に答えたものの、待っていたのは研究と称して筆保先生の無茶ぶりに応える日々。趣味で乗っていたクロスバイク「エリザベス号」は、温度計とGPSとカメラを取り付けた異様ないでたちに改造されて、観測車「オブザべス号」と改名させられました。そして、このオブザべスに乗り込み、研究室10人全員で横浜の坂だらけの街を縦横に走り続けるという、まさに体を張った観測プロジェクト。それだけにとどまらず、「観測しながら屋台を出して祭りをしよう!」「思い出ムービーも作ろう!」とまあ、わけのわからない無茶振りを言い出す筆保先生。しかし、研究室メンバーにも恵まれ、みんなで行う観測は想像していた何倍も楽しく、普通の研究室では味わえない素晴らしい研究ができたと思います。文字通り走り抜けた研究室生活でその濃密な日々は、私の心の中でさわやかな青春として、今も色あせず残っています。 ( その時に作った研究室PV「FARO2015〜そして伝説ははじまった〜」


お遍路さんを代わりに回る? 広瀬駿 (第3期生)
私が筆保研究室のメンバーになったのは大学院1年生の途中からです。気象学を研究したいやお天気キャスターになりたい、という夢があった私ですが、研究室に配属される時は筆保先生が大学に来られる前だったこともあり、気象学ではない研究室に入りました。しかし、研究生活が辛くて耐えられなくなり、「大学を辞めて四国に帰ろう」と退学を決断しました。横浜を離れる準備をして、心を癒す目的で四国のお遍路さんを回る予定も立てました。そしてもう最後になると思い、筆保先生に別れの挨拶をしに伺いました。「お天気キャスターになる夢はどうしたの?」「それは・・」と口ごもる私を見て、「俺のところに来い!」。研究室を変えて大学を続けないかという筆保先生のお誘いに、「はい」と私がすぐに返事をすれば感動的でしたが、その時私は「休学届を出したので、もういいです。」とお断りしました。しかし、筆保先生は引き下がらず、「俺が休学届は破棄しておくから」「でも明日愛媛に帰る切符を」「俺がキャンセルしておくから」「でも明後日からお遍路さんに」「俺が代わりに回っとくから」。あまりに強引な引き留め方に私は久しぶりに大笑いをしていました。大粒の涙も隠さずに。次の日から、筆保先生の下でやり直すことにしました。筆保先生には高い目標をたくさん立てていただき、私はお遍路さんを回る暇もなく、結果を出すために新しい仲間と何度も徹夜をして研究をしました。大変でしたが、好きな気象に全てを捧げられることはなんと幸せなことかを知りました。おかげで、休学することなく卒業して、念願のお天気キャスターにまでなれました。今でもあの日を思い出します。あの時あのまま歩き遍路をしていたら違う人生を歩んでいたでしょうね。


こんなはずでは       森山 文晶(第3期生)
私は現在、東京大学で博士号をとるべく昼夜研究に励んでいます。「こんなはずでは・」。私がここに至るまで、この言葉が何度頭をよぎったことか。筆保研究室に入り、コンピュータを使った研究に没頭してしまい、大学院に進学して研究者になりたい!とまで願うようになりました。研究室に入る前は体育会系サークルに没頭していた私にとって、そのような夢を持つこともまさに「こんなはずでは?」でした。夢に向かって順調に研究していた大学4年の夏、突然私はある病気で脳出血を起こし、高次脳機能障害で長期入院を余儀なくされました。2度目の「こんなはずでは??」です。長期入院している状況では、秋に行われる大学院入試は受験すらできない、と落ち込んでいました。しかし、筆保先生は「森山君を研究者に育てますから」と、その年の入試を受けさせることを周囲に説得してくださりました。私もその気になり、病院から受験会場に向かうという力業で奇跡的に合格しました。筆保先生の研究者への育て方は刺激的でした。「学会があるけど申し込んでいい?」と、まだ研究結果も出ていない私に尋ねて、「ポスター発表だろうし、なんとかなるか」と軽い気持ちで了解しました。数日後になり「あれは口頭発表だよ!」「え?」、さらに数日後、「発表は英語でよろしく」「え?えーー」。私の生まれて初めての正式な研究発表が、英語での口頭発表と決まりました。「こんなはずでは???」。学会までの日々、研究と発表練習に没頭しました。やればなんとかなるもので、無事に英語発表をこなし、このときの発表を見ていた東京大学の芳村教授が、今の私の指導教官になるのはこの1年後でした。今では、次はどんな「こんなはずでは\(⌒O⌒)/」がくるのかを楽しみにしながら、目の前の研究に没頭するのみです。


つれづれなるままに「そら日記」  中村望 (第7期生)
高校1年生の時、なんとなく教師になりたいという夢はあり、なんとなく訪れたオープンキャンパスで、なんとなく受けた気象学の模擬授業。そこで教わった空のメカニズムがとても面白く、今まで見ていた世界(空?)が一変する感覚を味わいました。そして、好きな空を熱く語る筆保先生の姿に心打たれ、何としてもこの大学に入って筆保研究室に入りたいという気持ちを植え付けられました。「なんとなく」の大学進学が「絶対」に変わった瞬間です。受験勉強で苦しくなった時は、やっぱり研究室のブログ「そら日記」で一息いれました。筆保研究室では、毎日、研究室のメンバー一人が担当して、その日の空の観測の様子と、ちょっとした日常を綴ります。その日のブログで空の様子が届くたび私の好奇心は揺さぶられ、研究室メンバーの日常が届けば大学生活への憧れでいっぱいになりました。また、メンバー一人一人の個性が垣間見えるそら日記は、お会いしたことない先輩にも関わらず親しみを感じ、憧れの研究室との繋がりの一つとなりました。そうしてこうして、横浜国立大学に無時に入学、さらに筆保研究室にも入れてもらいました。そして、ついについに、自分がそら日記を書くことに。ヘビー読者になって約5年、アレを書こう、コレを書こう、とそれまで妄想が膨らみすぎて、いざ自分の番になると・・・何も書けない。結局、記念すべき1回目のそら日記は2時間もかけたのに簡素な自己紹介で終わってしまいました。
それから私は無事に大学を卒業して、研究室を離れました。しかし今も変わることなく、そら日記を通して研究室やメンバーの様子を眺めています。ブログ自体ユーザーが減ってきましたが、そら日記だけはどうか長く続きますように。
そら日記


学級担任        松下嗣利(第2期生)
私が学部2年生になった4月、横浜国立大学に筆保先生が着任しました。先生の第一印象は失礼ながら「とにかく軽い」でした。会話にオチをつけて笑わせたり、無茶ぶりしてみたり、もはや学生と変わりありませんでした。授業でも、自分のボケにツッコんでほしそうに学生のほうを見まわすこともしばしば。ただ、一つ輝いて見えたのは「俺は気象が好きだ、どうにかしてこの面白さを君たちに知ってほしいんだ。」というあふれんばかりの熱意を持っているということでした。1年後、私は筆保研究室の一員になりました。研究室の様子を一言で表せば「ONE TEAM」でしょうか。定時の観測にはメンバー全員で行き、課題やテーマに対しては、先生・上級生・下級生関係なく、自由に意見を交わし合いました。それでいて、先生の誕生日にサプライズを仕掛けたり、飲み会で上級生がキレッキレのダンスを披露したりするなど、笑いの絶えない研究室でした。
 中学校の教師になった今、当時の研究室を思い返すと、素晴らしい「教室」であったと思うのです。筆保先生は、分け隔てなく研究室の学生のことを気にかけていました。自分も学生と一緒に考える姿勢を大切にしつつも、ダメなことには毅然と対応する。飾らないありのままの自分で学生に関わり、研究室全体の安心感や居心地の良さを作り出す、まさに“学級担任”でした。
 ロシアの心理学者ヴィゴツキーは教育者を園芸家にたとえ、園芸家は間接的に環境を適切に変化させることによって、花の発芽に影響を及ぼすように、教育者も環境を変えることで子どもを教育するのです」と述べています。私は筆保研究室で気象を学ぶとともに、教育者としての基礎を教わったと思っています。


予報士マッスル道場 〜気象予報士への道のサポート〜 和田師範
縁あって平成29年4月から筆保研究室主催の「予報士マッスル道場」の講師を行っています。第1回目は気象予報士や天気図の説明後、300hPa天気図に強風軸を描いてもらいました。連休明けの第2回目、「300hPa天気図に強風軸を描いて」といったところ、全員そろって「エ〜ッ」と。その必要性を説明したところ、目の色が変わりました。赤木由布子さんは、第3回目からの参加です。第一印象は、華のある人です。8月は学科の模擬試験を行いました。解答とその解説をしましたが、谷底に落としたかなと思いました。嬉しいことに、8月末の気象予報士試験で赤木さんを含む3人が学科試験に合格。これには私だけでなく、筆保先生も驚きました。それから赤木さんの目つきが変わり、講義後は必ず実技試験の過去問で自分の書いた答えと、解答例との違いを聞いてきました。時には、「その文章は日本語としておかしい。」と言ったこともあります。赤木さんは、その年度の第2回目でみごと合格。報告のメールを見たときは、「やったー!」と大きな声をあげ、女房が「どうしたの」と。赤木さんは就職先から、「できる限り気象の知識をつけて。」と言われていたことは知っていたので、是非合格してほしいと思っていました。
 私は第2回目の試験で合格した気象予報士で、昭和28年5月創業の日本初の民間天気予報会社、いであ株式会社の社員です。でももう高齢ですから毎日出勤ではありません。港湾建設のための波浪予報や、ダム管理のための雨量予報を現場で行い、気象関連の調査も行ってきました。所属はバイオクリマ事業部で、健康と気象の関連の研究や予報を行う部署です。健康予報だけでなく、様々な気象情報や、国のダム管理部門や道路管理部門に予報情報を提供しています。


気象学研究室で学んだ気象学以外のこと(原文) 広瀬駿 (第3期生)
これは、筆保研究室で毎年度末に行われる歓送迎会、通称「追いコン」のお話です。他の研究室の追いコンは、先生と学生がお酒を飲んで、思い出話を募らせるという会なのですが、筆保研究室は違います。いつもは飲み会には関心のない筆保先生が、全力を注ぎます。毎年、さまざまなドッキリ企画が組み込まれ、送り出される卒業生は当日まで何が行われるかわかりません。思い出話に浸っている時間はないくらい騒ぎます。そんな追いコンで、先輩を送りだすことになった私は、卒業式のパロディーの中の校歌斉唱のコーナーで、みんなの前で歌って踊ることになりました。私は幼い時から「歌って踊れる気象予報士」になることが夢で、その実現のために学生時代にミュージカルの専門学校に1年半通っていました。まさか、その経験がこんな時に役立つとは。しかし、居酒屋の個室で、卒業生のために一肌脱ごうではありませんか。追いコンが始まり、ついに私の出番。私は全身で喜びの舞いと歌を捧げました。筆保先生以外に前もって知らされていない参加者は、最初は全員呆気に取られていましたが、そのうち大爆笑。そろそろクライマックス、会場も興奮が頂点に達したときに思わぬ掛け声が。「ドリンクでーす」、なんと店員が部屋に入ってきたではありませんか。これは恥ずかしい。今すぐに真面目な大学院生モードに戻りたい。しかし、ここで踊りを止めて笑いを終わらせて、がっかりさせるわけにはいかない。氷のように冷たい視線を送る店員を横目に、舞台笑顔を絶やさず腰をくねらせ腹式呼吸で歌い踊り続けました。この時やっと、自分の心を押し殺して、自分を捨てて踊り続けるという、サービス精神を体得できたように思います。大阪の番組でお天気キャスターになった今、何度も台本にはない無茶な要求を生放送で受けたりしますが、いつも笑顔のままのり切っています。気象学研究室で獲得した気象学以外の技術は今とても役立っています。


空を追いかけた先はアナウンサー? 赤木由布子(第8期生)
私は研究室を卒業後、地方のテレビ局でアナウンサーになりました。とっても華やかに見えるこの職業は、多くの女子大生が目指して勝ち抜いてやっと立てる!!という道を通るはず。しかし、私の場合はそのような道ではありませんでした。就職活動を始めたころ、私は、職種はあまり選ばず、両親の実家がある岡山で働くことだけを条件にしていました。横浜から岡山に足を何度も運び、就職活動をしました。いろいろな会社に挑戦しては内定をなかなか頂けず、大変でした。やっと内定の一つが出たのが、岡山・香川のテレビ局でした。そして、テレビ局の方から、アナウンサーをやってみないか?と声をかけていただいたのです。まさかのアナウンサー。研究室のメンバーからは「テレビの世界でやっていけるの?」「大丈夫?」と、心配の声しかありません。私も、人前に出るのも苦手だし、安定した職業ではないし、不安になり内定を辞退するまで考えていました。そこで相談したところ、「筆保先生、私、どうしたらいいですかね?」「赤木はスポットライトを浴びるといいよ!」。思い出しました。筆保先生の全学向けの授業は、学生たちの中では言わずと知れた人気の授業です。300人を収容する教室でも人はあふれて、席に座れず立っている人や教室に入れない人が出るほどです。その教室の中央でスポットライトに当たり、意気揚々と気象について語る先生の姿に憧れていました。とても悩みましたが、最後の決め手は先生に憧れた当時の自分を思い出して決めました。今では、夕方のニュース番組、グルメ番組と毎日忙しいです。でも充実していて仕事には満足しています、岡山ではなく香川に出勤という点を除いては。


「海、潜っちゃう?」TeamUMI結成 赤木由布子(第8期生)
筆保研究の場合、卒業研究のテーマは大学3年の時に決めます。当時、研究テーマを決めかねていた私は筆保先生に相談しました。すると、「海、潜っちゃう?」と先生。「えっ、海ですか?・・・ここ空の研究室ですよね!?」と私。しかし、先生には何か深いお考えがあるにちがいない、と言われるまま海に潜ることを決めました。後日お考えを伺うと、長年ダイビングを運営する湘南DIVE.comと研究室の共同観測研究を立ち上げたかったが、なかなか研究室にダイビングを趣味とする学生が入らなかったため、たまたま陸上部の私に声をかけたそうです。ともかく、その一言がきっかけで、私のダイバーへの道が始まりました。湘南DIVEの関田さん、杉木さん、かおりさんのエスコートがとても上手で、私は軽い気持ちで始めたのに、気づけばダイバーの資格獲得へまっしぐら。海の中は今までに見たことのない世界が広がっていて、とっても楽しかったです。ウミウシがかわいい! でも、酸素タンクがとにかく重い。また、真冬の海に1人の後輩を道ずれに2人海へ飛び込みましたが、とにかく寒い。海から出ると、本当の極寒が待ち受けています。濡れたウェットスーツが体の熱を奪っていく。潜熱とはこういうことかと肌で学びました。肌で海、自然、いや「気象」を感じることに感動した私。その後、研究室のメンバーを誘い、筆保研究室Team UMI(うみ)を結成しました。研究は数値やデータだけでない、体で感じることも研究なのだと教わりました。 ( Team UMIのプロモーションビデオ


海と空をつなげる筆保研究室との共同観測DIVA湘南 関田(湘南DIVE.comCOE)
私は神奈川県葉山町でダイビング店「湘南DIVE.com」を運営しつつ、数年前からは、海の気象を伝える気象予報士としても活動しています。海の様子を定点カメラで24時間ライブ中継するとともに、ダイバー向けの海の気象予報を配信しています。ダイバーは時には水深50メートル前後まで潜り、波の強さやウネリ、透明度や潮のしょっぱさまで、大海原を肌で感じることができます。潜る度にその様子は変わり、同じ日はありません。潜水するかどうかを判断する際、ダイビングの世界ではこれまで「気温の高くなる日中は風が吹いて海が荒れる」とか「この地形でこの向きの風が吹くと透明度が上昇する」など、経験則をもとに気象や海象を判断する「観天望気」に頼ってきました。これももちろん大切ですが、気象学的な根拠に基づき海象を理解・予測することも重要と考え、気象の勉強を始めました。
筆保先生のことを知ったのは、気象予報士試験の勉強中。「台風の正体」という著書を夢中になって読みました。試験合格後、予報士会と筆保研究室との合同イベントに参加し、初めてお会いした時は嬉しかったです。私は勉強したばかりの知識を頭の中で総動員しながら、予報士や学生たちによる発表を聞き、会の終了後、「先生、あの観測方法だと誤差がかなり出そうですね。大丈夫でしょうか?」などと真面目に尋ねました。すると、「関ちゃん!『先生』と呼ぶのは絶対ナシね!それと、一番大切なことは、楽しむこと!楽しそうだからいいじゃん?あはは」と返されてしまいました。頭でっかちになっていた私は驚くと共に、気象を楽しむことをあらためて思い出させてもらいました。
 2017年から海の近くにある私の店の屋上で、筆保研究室と空の共同観測プロジェクトを始めました。この活動は日変化を意味するDIurnal VAriation から「DIVA湘南」と名付けられました。
2019年、活動はさらに発展し、相模湾の海風の研究として 、葉山・芝崎海岸でのパイロットバルーン観測も共同実施しました。店の対岸にある葉山の守神様・森戸神社のご協力を得て場所を借り、店前で打上げた風船を見失うまで対岸の観測機で追跡するというものです。海風とその反流をキャッチし、その構造を解明するのが目的でした。
 学生たちは前日から私の店に泊まり込み、朝4時に起床。猛暑の中、暗くなるまで長時間の観測を数日間続けました。1時間ごとに風船を打上げるのですが、分厚い雲で観測が妨げられる、海風が出ないか、騒音で近所から苦情が・・・など数々のドラマがあり、密度の濃い日々でした。
 私の担当は学生達の後方支援です。布団を用意し、朝は物凄く重いヘリウムガスを物音立てずに運搬。空腹で心が折れそうな学生さんには食べ物を差し入れ、休憩の合間には、締切が迫るレポートや恋のお悩み?をそれとなく聞くなど、多岐にわたる支援でした。この研究をまとめた卒論を学生さんが届けてくれた時には胸が熱くなりました。入学時には子どものような顔をした彼ら、彼女らが、卒業する頃には、随分大人っぽく、格好良く、立派に成長する姿にいつも驚かされます。
 変わらないのは、空を見上げる顔。これからも葉山を舞台に空と海をつなげ、さらに今後は海の中にも案内し、海象も体感できるような手伝いをしたいと考えています。


机上の「空」論        おくむら政佳(第6期生)
年季の入った丸い水槽に、まるで町工場の職人のように慣れた手付きでアルミの粉を振り落とす学生。さまざまなデータが刻々と更新されるディスプレイの下にはノコギリが転がり、木くずとペンキの匂いがまざったその部屋の片隅では、最新のAIを用いてコンピュータが膨大な観測結果を処理している――実はこれら全てが、「そら」に関係した研究。デジタルとアナログ、理系も文系も入り混じる不思議な場所、Team SORA、筆保研究室の風景です。37歳、保育園の先生をしていた私もその中の一人でした。高校時代は最年少気象予報士になりつつも、大学時代に「ボイスパーカッション」に熱中してプロの音楽の道に進んだ私。その後も音楽家(コーラスグループRAGFAIRに所属)や保育士(保育園の担任)や気象予報士と、まさに3刀流で活動中でしたが、保育園での気象教育の取り組みを論文にしたいと、大学院の門を叩いたのです。ちなみに、筆保研究室を選んだのは、「近かったから!」。わずか2年の間に、(株)ウェザーニューズ社協力の下で幼児気象教育アプリ「SORA KIDS」を開発し、気象学会から表彰(2017年度奨励賞)して頂けるという栄誉を得ることができたのは、この研究室の「そら漬け」が楽しかったから。結果が出ていない中で入学後すぐに学会発表デビューなど、筆保先生の無茶ぶりを受けながら、とにかく2年間「そら」の下で走り続けました。「机上の空論」という言葉がありますが、ここでは少し読み方が違うのかもしれません。気象学のあらゆる可能性を探るための、机上の「空(そら)論」――Team SORAメンバーは今日もまた、そらの謎とロマンを追い、チャレンジを続けているのでしょう。?


出会いで変わる           津元澄(教諭)
そもそも、文系一筋の私が、横浜国立大学理科系教員養成プログラム(CST)に参加しようと思ったこと自体が、今考えれば不思議なのですが、筆保先生の講義を受けたのは、ちょうど、研修が楽しくなってきた頃だったと思います。講義の中で、手作り百葉箱の話がありました。「予算化したり、場所を確保したり実際にやるのは、無理だよ。」と心で思っていると、「興味を示す割に、実際に作る人はいないんですよね。」と挑発的な言葉。なぜか自分が言われた気がしました。私の実家は、建築業を営んでいます。そのとき、私のDNAが騒いだのだとしか思えません。そこで、手作り百葉箱作製にかかりました。全くの見切り発車です。筆保先生からいただいた設計図とにらめっこしながら、作製を続けなんとか形になりました。「よし!管理職にお願いしよう!」当時の教頭先生は、二つ返事で快く予算を出してくれました。ところが、地上からの百葉箱の高さはどうするか、ゆがんでいて扉がつかない、など苦難の連続です。学校の理科室で悩んでいると、校務用員さんが、一緒に悩んで協力してくれました。やっと完成した百葉箱、うれしくてうれしくて筆保先生にメールを送ると、一緒に喜んでくれました。これだけでも、百葉箱を通して、多くの人とのよき出会いがありました。
5年生、6年生と筆保先生のアドバイスを受けながら実践を重ね、子どもたちの天気への関心の高まりを実感しました。「空って、おもしろい。」「もっと、子どもに伝えたい。」と思った矢先、私は1年生の担任になりました。「さすがに1年生には、無理だ。」とあきらめていました。しかしここでまた、CSTの仲間との出会いが、私の実践の扉を開いてくれました。「1年生を馬鹿にしちゃだめよ。」「すごい力を持っているのだから。」そこで、1年生にどのように投げかければいいか考えました。筆保先生とのつながりもさらに深まりました。1年生の成長は著しいものでした。雲を毎日眺める子、毎朝、池の氷を確認する子、天気って誰にとっても身近で、興味深いものなのだということを実感しました。ある冬の日、「先生、氷が張っていたよ。」と喜び勇んで、クラスの子どもが教室に駆け込んできました。「じゃあ、一緒にもう一度見に行こう。」と子どもたちと一緒に校内の池までいきました。「昨日は、もっと寒かったのに、氷が張ってなかったよ。」「乗ってみたいな。」一生懸命話してくれる子どもの目はきらきら輝いていました。
学校を異動して最初に担任した学年は2年生でした。運良く教室の目の前には、百葉箱がありました。今回は低学年だからと躊躇することなく、さっそく子どもたちと実践することを決めました。この年は、記録的な猛暑でした。猛暑日、真夏日、夏日などの基準を知っている子どもたちの休み時間、「今は、猛暑日になったかな。まだ真夏日かな?」「見に行こう。」と会話をしている子どもたち。そして、百葉箱のある中庭に飛び出し「わー、35度超えてる。猛暑日だよ。」とクラス中に伝える子。盛り上がる教室。天気の知識が共通の土台として定着しているからこそ、クラス中で、関心をもっていけるのだということ感じました。
私は、筆保先生と出会いをきっかけに、挑戦することがさらなるよき出会いにつながることを実感しました。これからもこの出会いをさらなる出会いにつなげていけるよう挑戦し続けていきたいと思います。


4人で見上げた始まりの空 曽屋愛優香(第1期生)
私は筆保研究室の1期生です。思い返せば、筆保先生に出会った頃の私は、大学生活に馴染めず、教師になりたいという目標を見失い、自信もなくした状態でした。希望を見出すことができないまま3年生になり、研究室配属のための説明会に行くと、初めて見かける先生がいました。気象学について熱く語る姿に惹かれて研究室を訪ねてみれば、ダンボールでちらかった実験室に案内され、「ここを俺たちの基地にする」と先生から満面の笑みを向けられたのです。その時、この先生のもとで新しいことに挑戦したいという気持ちが湧き、筆保研究室と気象学の世界に飛び込みました。それからは「曽屋はモノづくりを武器にしろ」という先生の言葉を信じて、手作り気象測器の開発、コンピュータのセッティング、ホームページ作りという研究に携わりました。研究とは名ばかりで、研究室の立ち上げを手伝わされていたわけですが、私が作るモノに感動する先生や研究室の仲間の姿を見て、私は次第に自信を取り戻していきました。また、先生や仲間と屋上から空を見上げる時間「空観測」が楽しみになっていきました。そんな日々の中で、先生からは何度も「曽屋は教師に向いている」と言われて、教師という目標に向かって挑戦する勇気も与えてくれました。現在は中学校の理科教師となり、モノづくりを武器に教材開発や気象教育に力を入れて活動しています。生徒達は、牛乳パックで作った百葉箱やピンポン球で作った黒球温度計を手に、夢中になって観測を行っています。こども達の空を見上げる無邪気な表情を見ていると、筆保先生と3人の1期生の仲間とで初めて見上げた青空が浮かんできます。


悲劇を乗り越えて空の研究室へ   熊澤理恵 (第3期生)
私は子供の頃から、気象予報士になりたい!気象の仕事がしたい!という夢があり、大学では気象学が学べる所と決めていました。そして、筆保先生とは別の気象の先生がいる横浜国立大学環境情報学科に入学しました。しかし入学後まもなく、その先生は定年退職してしまい、気象学研究室の道が突然なくなってしまいました。この不運にショックを受けて、別の大学に入り直そうかと悩みながら過ごしていました。そんなとき、私とは別の学科に筆保先生が着任したことを知りました。そして、筆保先生の授業を受けて、「これは筆保研究室に入るしかない!」と心に決めました。しかし、研究室配属をする学年になって、別学科の研究室は選べないというルールがあることを知りました。いつもは諦める私ですが、何があっても!という覚悟がもうできていました。熱い思いを伝えて、学科の多くの先生を次々に説得し、「筆保先生が許せばOK」というルール改正にこぎつけました。そして面接の日になり、「ルールを変える強引な学生をどう思うかしら…」と弱気になり、それまで面識のない筆保先生の前でビクビクしていました。しかし、「ルールを変えてまで研究室を希望してくれてありがとう」という言葉は、今でも心に残っています。そしてなんとか筆保研究室に入ることができました。天気図を眺めながら過ごす幸せな日々を送り、ついには在学中に気象予報士試験も合格できました。あのとき、「運が悪かった」と諦めていたら・・、きっと私の夢は何一つ叶わず、気象予報士も気象キャスターにも、なることもなかったでしょう。


台風ソラグラムを世間に送り出す  山崎聖太 (第4期生)
台風ハザードマップが世に存在しなかったことをご存知ですか?私は、世界初の台風ハザードマップを開発しました。振り返ると、その未踏峰の挑戦は、研究室所属前から始まりました。2011年、故郷和歌山が台風12号により甚大な被害を受けました。この出来事を機に、「台風を学び、減災に貢献したい」という気持ちが芽生えました。その後、筆保研究室に所属した私は、先生の指導のもと台風の研究に邁進します。災害リスクを評価するためには、台風に伴う風雨のデータが必要です。私たちは台風位置を少しずつシフトしてシミュレートする方法で、異なる経路を有する計828個の台風を再現し、膨大な風雨のデータを得ました。続いて、データをもとに台風経路と風雨の関係を調べました。研究者の方々と議論を重ねたり、論文を読んだりしながら、より効果的なリスク評価方法への改良と防災情報としての精度検証を繰り返しました。学会で成果報告をしていたある日、生活情報などのモバイルコンテンツを配信している(株)エムティーアイの担当者より、成果を台風防災情報「台風ソラグラム」として公開する提案を受けました。なんだか山頂が見えた瞬間でした。打ち合わせで、新宿の高層ビル上層階から東京を見下ろした際に、筆保先生と「こんなところまで登り詰めたか…」と冗談交じりに話したことを覚えています。この研究成果を科学論文として投稿したところ、うれしいことに、優秀修士論文賞と学生表彰をいただくことができました。大学を卒業した今は、研究開発に力を入れている気象会社“ウェザーマップ”で働いています。研究成果を防災情報という形で世へ送り出した経験は、研究開発を進める上でも、大きな自信となっています。


人の渦がつくった台風発生診断システム気象庁導入の道 吉田龍二(NOAA)
台風は大きな渦と雲が組み合わさった構造をしており、熱帯の海上にできる輪形の雲が種となって、海からの水蒸気の助けを受けて渦が強くなることで発生します。現在、気象庁で台風発生環境解析 (TGS)というシステムがテスト稼働しています。TGSは台風が発生した環境を自動的に解析し、発生の原因となった大気の構造を教えてくれます。これはTGSの誕生から実用化までを描いた物語です。
2008年、私が学生の頃、台風の発生過程に興味を持ちTGSの開発を始めました。既に発生環境を調べる手法は発表されていましたが、人の手で解析するもので活用には自動化が必要だったからです。数学やプログラミングを勉強しながら、食事中も通学途中もアルゴリズムを考えていました。
ある学会に参加したときのことです。研究室の先生が台風研究の本場アメリカで働いている日本人研究者を紹介してくれました。その方は台風力学のセッションで登壇なされ、あまりに面白い発表に集中しすぎてタイムキーパーの仕事を忘れた事を覚えています。その人こそ筆保さんでした。それからも多くの方々からエネルギーを得て、2013年にTGSの種ともいうべき最初のシステムが完成しました。
新しい手法にはいろいろ試験が必要です。TGSの有用性を証明するために筆保さんとの共同研究が始まりました。2017年、種の特徴が違えば成長した台風の性質が異なることを見つけました。例えば、東西の風がぶつかる場所で発生した台風は北へ進みやすいのです。この情報は予報に役立てられるかもしれません。筆保さんは人脈を駆使し、これまでの成果をもって気象庁の方にTGSと私を紹介してくれました。ここからTGSは急発達します。気象庁の方が興味を持ってくださり、テスト導入の話が立ち上がったのです。気象庁にお邪魔して議論を重ね、システムの改良とテストに打ち込んでいると矢のように日々が過ぎました。
2018年6月、TGS導入当日の朝、プロジェクトは最後の試練を迎えます。気象庁近くの喫茶店で筆保さんと待ち合わせて最終確認を行っていたとき、図の一部が描かれないバグが見つかりました。初日からまともに動かない様では使ってもらえるはずがありません。筆保さんに先に気象庁へ入ってもらって時間を稼いでもらい、問題箇所を必死で探しました。なんとか修正を完了させて会議室へ飛び込み、ドキドキしながら気象庁の計算機へ移植、コマンドを実行。緊張の一瞬でした。TGSは無事に動作し、すぐに解析結果が出てきました。ついにTGSという渦が出来上がったのです。開発を初めてから10年が経っていました。
気象学は防災・減災に直接結びつく学問です。研究者は「いつか何かの形で役にたてば」と思って研究を進めています。その意味で我々が開発したツールが活きる場を与えられた事にはとても誇りに感じます。それを実現したのは、人と人のつながり、人の輪だと思います。輪がぐるぐる回り、強くなる事で1つの渦が発生するのです。


裏こち横 あとがき

もしこのコラムを読んで興味を持ってくださった方は、ぜひ「こち横」 の本編も読んでみてください。
こち横について、自分の作品の評価は客観的にはできませんが、この大学に務めて十年、この研究室を続けてきた一つの成果のように感じています。byふで